「すべての教育は洗脳である〜21世紀の脱 学校論」 堀江貴文 著
自分に自信をなくしていた時に紹介してもらってた本です。私が共感したポイントを少しご紹介します。
「学びとは〇〇である」
みなさんは、「学び」に対して、どんなイメージをもっていますか?
私は学びに関わる仕事をする中で、「学びって楽しい!」「学べるって幸せ」と思っています。
よく比べてしまうのが、途上国の学校の映像をテレビなんかで子どもたちを見ると、すごく目が生き生きしてるように見える。それがまさに「学んでいる」姿。
一方で日本の学校現場や、周りの人たちと話をしていると、「勉強したくない」「勉強してるの??すごいね?」ってコトバをよく聞きます。
この本の中で、書かれている表現、それが
『学びとは没頭である』
すごくいい表現だと思いました。私もファシリテーションに出会ったとき、まさに没頭するように本を読みあさり、さらに知りたくていろんな人に出会いにいく。没頭して、ファシリテーションを学んでいました。
『僕が言う 「学び 」とは 、没頭のことだ 。脇目もふらずに没頭し 、がむしゃらに取り組める体験のすべてが 「学び 」だと僕は思っている 。だから 、没頭する対象は数学や英語 、料理だろうと 、ダンスだろうと何でもあり得る 。すなわち 、その人が心から没頭できていれば 、対象は何であれ 、僕はそれを 「学び 」ととらえる 。』
と堀江さんも書籍の中で書かれています。
つまり、没頭できていないものって、学びじゃなくて、『お勉強』と比較して書かれていました。『お勉強』ってやらされるものだから嫌いに感じやすいですよね。自分から学ぶと楽しいんです。
「自分で選択して学ぶ」
とある学校で忘れられない光景があります。
小学校の放課後の様子を見せてもらっていたとき、教室の前の方に、今日の課題のプリントが10種類くらいありました。
ある子が私に、「どのプリントしたらいい?」って聞いてきたので、私は「どのプリントしたい?」って聞き返したら、一つ「これ!」って嬉しそうな声で、選んでやり始めようとしました。
その様子を見ていた担当の先生が、「〇〇くん、あなたはそれじゃなくて、これしなさい」といって、その子が選んだプリントじゃなくて、先生が決めたプリントと差し替えました。
その子はすごく悲しそうな顔をしてイヤイヤ、プリントをし始めました。
たぶん、先生の立場からすると、その子に足りない力はこっちのプリントだって、その子を思って選んであげたのかもしれないけど、その時のその子にとっては、ただ否定されただけで、頑張る気持ちがなくなってしまったように見えました。
それが毎回続けば、もっとやる気なくなるよね。
大人の立場で近道って思って選んであげる選択って実は遠回りになることもあるんです。
私は友達の子どもたちにもよくするけど、なんでもやってみたいって言ったことをできるだけ、(形をかえても)できる形でやらせてあげる。
この様子にはみんなびっくりされるんだけど、すぐにダメって言わず、この部分は危ないから大人がするけど、この部分からできるかな?とか、子どもと相談したり、どうやったらできるかな?って子ども自身に考える時間をあげたり、それだけでいいんです。
危ないことを避けるともっと危ない!
選択権を子どもたちにたくさんの機会を与えてあげると学びってもっと楽しくなるんじゃないかな??